ボクサー 小笠原一揆の自叙伝~奇跡~episode1

ボクサー 小笠原一揆の自叙伝~奇跡~episode1

はじめに

手紙
この自叙伝は90年代にボクシングで活躍した元日本J・ウェルター(現:スーパーフェザー)級1位の小笠原一揆(おがさわらいっき)選手より依頼を頂き、便せん50枚以上の手紙をもとに編集した記事です。

小笠原一揆 自叙伝~奇跡~

ローカル線

九州の田舎町、高校卒業と同時に進学もも、決まらぬままにその日のうちに上京した。

今のプロテストとは、どんなものなのかは知らないが、僕は、プロテストには、一発で合格した。

意外とかんたんだった。夢は叶った。

プロスポーツの世界で満足できるところまでやれたのだ。

引退後は九州の両親も、この様に帰ってきて欲しかったらしい。

しかし、平凡な生活や幼馴染との安泰な生活なんかで終わりたくはなかった。

(人生には、遠回りのように見えても、そのための時間が必要な場合があり、それに耐える根気が大切なのだ)と作家の山本周五郎は言っております。

1985年、俺の人生の旅は あの日から始まった。

憧れ、夢、夜汽車、上京・・・十年間も東京にいた。

今では 東京が本当の僕の故郷みたいだ。

僕が生まれたのは1967年の12月11日、当時、東京にいた父と母の子として平凡に生まれた。

ただひとつだけ言うとすれば、母親は、僕のことをおろしたかったらしい。

東京都の足立区にある尾竹橋本院は、カトリック系の病院でそれを許されなかったらしい。

僕が生まれたのは、本当に奇跡だった。

自由のない現役生活から開放された機は自分のことを、イージーライターだとか言って、 日本一週もしたし、アメリカンタイプで国産スズキの小豆色の400CCのピカピカのバイクに乗って南の島と北海道に行った。

250ccのKawasakiのバイクに乗っている北海道は新日本製鉄 (しんにっぽんせいてつ)の街、室蘭出身のちよっと可愛い女(コロ)と北海道で出会った。

北海道での結婚生活は帰る場所のある旅のようで、毎日が新鮮だった。

愛があった。本当の愛があった。

自分の人生で今までこんなに大切にしてもらったことは無かった コロというのは、僕がつけたの嫁さんのニックネームです。

「考えてみれば、結婚というやつは、給料袋の行く先が母親から他の女の所に替わるだけだ」とイギリスの作家アラン・シリトーが「土曜の夜と日曜の朝」で言っているが、旅から帰る新しい場所が出来たって事か。

250ccのバイクのコロのお父さんが、二つ返 事で保証人になってくれて、同性生活をはじめた。

札幌の安い借家での生活は、たのしかった。どちらかと言うとコロはお嬢様だった。短大も出ていた。

旅をするという事は、まだ見たことも、行ったことも無い所に行くってことだろう。

(新しいことに、チャレンジし続ける事)だろう。

毎日、毎日汗にまみれながら、そんなことを考えつつも、こんな毎日もまんざらではないなと、やっと思えるようになってきたよ。

僕も42歳になるけれど、まだまだ、旅をしたいな、世界中をどこまでも、この女 (コロ)を連れて、結婚前の、胆石摘出から始まって、(流産、子宮外妊娠、流産、流産、流産)で計5回。

その次は、咽の甲状腺のポリープ摘出手術、そして子宮がん、乳がんと、妻の病気は続いた。

今はようやく完治した。僕だって本当に泣いたのだよ。子供が欲しかったのだ。

しかし、結局我が家には子供はできなかった。僕は子供が大好きだ。それは、妻も知っている。

結婚前のまだ付き合っている頃に、北海道での初めての冬に、僕が東京都の小笠原諸島の島に、半年間もの長い間、仕事で行っていたときにも、こんな僕に懐いてくれた子供たちがいた。

秀子と、亀太郎

小笠原諸島の父島の、秀子と、亀太郎だった。

大好きだった。とても可愛かった。可愛す ぎた。愛していた。

その子達ともうすぐに、連絡がとれるかもしれないのだ。

20年ぶりに、 もしも会えたならお互いにびっくりするだろう。僕の痩せた体を見て何と言うだろうか。

しかし、俺はわざと太らないようにしているのだよ。 来るべき日のために。

毎日たったの5.5キロだけと、欠かさずに走っている。
(最今は随分筋肉もついてきたよ。体重も少し増えたよ61 キロまでに)

月日は流れて今は2020年

僕が倒れたのは去年の建国記念日。

同じ日に妻のお父さんも亡くなった。

お父さんが僕のことを生かしてくれたらしい。

これ以上回復はしないと言われたらしいが、妻の献身的な介護により奇跡的に回復した。

寝たきりの僕が毎朝5.5 キロも走れるようになったのだ。

プロボクサー

プロボクサーだった

僕は昔、プロボクサーだった。

取り立てて運動神経が良かったわけでも、体に恵まれて いた訳でもない。

中学生の時は吹奏楽部で2 年間もトランペットを吹いた、同級生の、 口の悪い部長を殴って首になり、高校では柔道部で、初段の黒帯を取っただけの者だった。

たいしたことはなかった。

図書館でモハメッド・アリの自伝を読み、深く感動して上京した。

本当はそれまでは、警察官になりたかった。

今回の脳の病気では沢山の人にも、 所属していたジムにも、テレビ局にも迷惑を掛けた。

ボクシングでたくさん殴られたのが原因なのかも知れない。

北海道で、出会った妻には何の関係も無い!

別にたいしてそのことを忍んでいる訳ではないが、中学生の時の先生にたくさん殴られたのが、原因なのかも知れない。

だって、まだ10代の僕の体には、足を踏ん張っての何十発ものビンタは脳に悪影響を与えただろうと思えるからです。

でも、本当に恨んでなんかいません。本当です。

先生、奇跡的にも上京の日の僕と大牟田の駅でお会いした時に僕の目を真っ直ぐには見られませんでしたね。

本当に怨んでなんかはいませんから。気にしないで下さい。むしろ、その縁に感謝しているくらいです。

僕の目の色が変わった瞬間

スマートフォンを見た

今回の病気での入院の退院直後に、友人が送ってくれたスマートフォンの写真を見て僕の目の色が変わったらしいのです。

その理由は・・・続く。

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